生成 AI 利用者は "絵柄割れ厨" か否か

先日、 生成 AI と創作・同人文化についての記事 をアップロードするのとほぼ同時に、X (旧: Twitter) 上でこんなアンケートを行った。

厳密にはまだ締め切りを過ぎていないが、だいたいほぼ半々という感じになった。

“絵柄割れ厨” という言葉は適切か

そもそも 絵柄割れ厨 という言葉の意味についてだが、これは 生成 AI は学習データとして利用したイラストの要素 (つまり絵柄) をコピーしているのだから、 割れ厨 と等しい。だから生成 AI 利用者は相応の名前で呼ぼう というものだ。

では生成 AI の実態はどうなのかというと、過去に多くの人が説明しているように、現行の生成 AI は絵のパーツを切り貼りして行うコラージュとは全く別の数学的手法を用いて画像を生成している。この件については X (旧: Twitter) 上に有用な議論があったので引用しておく。

(長くなるため、これ以降興味ある人は各自スレッドを参照してほしい)

だが、 絵柄割れ厨 と呼ぶことに肯定的な意見を持つ人達からすれば そんなことはどうだっていい 話だろう。現に クリエイターが生成 AI で心を痛めている。どんな手法で画像が生成されてようとこの事実は変わらない からだ。

この世にフリーランチはない

おそらく昨今の世の中において、創作物の恩恵を一切受けていない人を探すほうが難しいだろう。今や多くの人が漫画・アニメ・ゲームのような創作物を享受し、それを糧として日常を生きている。

ドラゴンボール、ワンピース、鬼滅の刃 に勇気の大切さや信じる心を学んだ人も居れば、 呪術廻戦進撃の巨人 に生きる上での考え方を学んだ人も多いだろう。 ご注文はうさぎですか? からストレスフルな日常を生き抜くための癒やしを享受した人だって、同じように創作を生きる糧とする人の一人だ。

では、そんなすばらしい創作物は誰が産んだのだろうか。それは 紛れもなくクリエイター達 だ。我々はもはやクリエイターが居なければ日常を生き抜くことができないほどに創作物に依存しているのだ。

生成 AI が問題とされる背景に、そんなクリエイターの仕事を奪ってしまう可能性があるという部分がある。

現に私の好きだったイラストレーターは、 生成 AI の登場をきっかけに筆を折ってしまった。推進派が何を言おうと、この現実を捻じ曲げることはできない。

考えてみてほしい。 あなたの大好きな作品は当時生成 AI が存在していたら本当に産まれていただろうか?良貨は悪貨に駆逐され、産まれなかったのではないだろうか。そもそも生成 AI なんてものが産まれなければ、こんな醜い争いをしなくて良かったのではないだろうか。

生成 AI の学習は法的に許されているからとか、もはやそういう問題ではないのだ。 創り手が居なくなれば作品を享受することはできない。この世にフリーランチは存在しない。 生成 AI であなたの人生の支えが失われるかもしれないのに、何を呑気なことを言っているのだろうか。

悪貨か良貨の判断基準

上の文を読んであなたは何を思っただろうか。まさにその通りの正論だと思っただろうか。それとも真逆のことを思っただろうか。

上の文章は、ただただ私の感情を書き起こしただけだ。論理的整合性など一切取っていないし、詭弁だらけだ。そもそも 良貨は悪貨に駆逐される と言ったが、何を持って良いもの悪いものを判断しているのか謎だ。生成 AI で生成した画像は悪貨で人が描いた絵が良貨?根拠はただの主観でしかない。そもそも私は、最新の生成 AI による画像を完全に見抜くことすらできないのだから。

だが、仮にそうだとしても、私の素直な気持ちであることに変わりはないのだ。そして多くの人がそう思っているからこそ、 絵柄割れ厨 という言葉は一定の支持を集めているのだろう。

これを お気持ち だと言って馬鹿にする人が一定数居る。特に生成 AI に否定的な意見を述べている人に対し、生成 AI 肯定派 (反反 AI というのが適切かもしれない) が使っているのをよく目にする。

法律の根源は感情であるということ

昨今、法律に準じていない意見をすべて お気持ち という言葉で揶揄し、馬鹿にする人が SNS 上 (特に X 上) で多いように思う。

確かに法律は大事だ。我々の生きる社会において何か紛争が起きた際には、まず法律をベースに裁判が行われる。だが、その法律も、根源を辿れば人間の感情をベースに作られているものだという理解が及んでないように思える。

多くの人がそう思えば、法律は変わるのだ。お気持ちには法を変える力がある。

そして法以前の問題

だが一つ考えなければいけないことがある。この議論には 法以前の問題があまりにも多い ことだ。

生成 AI が自分たちの好きなものを奪うかもしれないとして、生成 AI を利用している根拠もないのに 絵柄がそれっぽいからとイラストレーターを叩いたり 、生成 AI 推進派であろうと 誹謗中傷で訴えられるほど叩いたり 、根拠が それっぽい 以外になく、そもそも生成 AI 利用してようと権利的に問題ないであろう 版元の公式グッズを叩いたり する正当性がどこにあるのだろうか。

もちろん生成 AI によって心を痛めている人が多いという現実があるのはそうだ。だが、だからといって意見の食い違う人に誹謗中傷を行ったりグッズの営業妨害を行うことが許されるわけがない。というか、 生成 AI の利用が法的にグレーだとしても彼らのやっていることは明確に法的に黒だ。

また、これはあくまでも私の意見だが、 絵柄割れ厨 という言葉も誹謗中傷に一歩踏み込んでしまっているように感じる。割れとは即ち違法ダウンロード、ソフトウェアのコピーガードを違法に迂回する行為であり、明確な犯罪であるからだ。 生成 AI の利用は、少なくとも現時点において明確な犯罪行為ではない。

何度も言うように、彼らの気持ちは理解できるし、最大限尊重されるべきだとは思う。だが、だからといって誹謗中傷や営業妨害を正当化するロジックにはならないと思う。

“令和のラッダイト運動” で何が悪い

生成 AI を取り巻く問題は、規制反対派から揶揄を込めて 令和のラッダイト運動 と呼ばれることがある。ラッダイト運動の詳細については 各自調べてもらいたい が、要するに 産業革命で機械化・自動化の波が訪れた時、それに手作業で従事していた労働者たちが機械を破壊して回った運動 だ。

でも、仮にこれがラッダイト運動と同じ動きだとして、行動を起こすことを否定する材料にはならないだろうと思う。ラッダイト運動が起きた当時のように、クリエイター側には戦う権利がある。もちろん日本は法治国家なのだから、それは法整備の促進であるとかロビー活動を行う権利であって、生成 AI 推進派に誹謗中傷をしたり営業妨害を行う権利ではない。

これはあくまで私自身の意見だが、クリエイティブ分野におけるラッダイト運動は成功する見込みがあると考えている。誤解を恐れずに言うと、本家ラッダイト運動とは異なり創作物という人質があまりにも強大だからだ。だからこそ、手段を間違えて先鋭化していくことが残念に思えてならない。

みんなでダム・マネーを見よう

唐突だが、私は数か月前に ダム・マネー ウォール街を狙え! という映画を見た。端的に言えば、 自分の思い入れのある企業の株価が不当に下がっていると思ったナード (≒ ヲタク) が社会運動を起こす映画だ。 これはアメリカで実際に起きた史実を元にしたドキュメンタリー映画で、労働者 vs 資本家のような構図で対立が激化するというものだ。

結末は自分の目で見てほしいが、生成 AI の諸問題に声を荒げている人たちには是非見てほしい映画だと感じた。自己の信条に則って行動することの大切さ、団結による力、そして難しさを学べる良い映画なのではないかと思う。

Licensed under CC BY-NC-SA 4.0
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